高津小学校の歴史     

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戦後

平成

実は140周年

高津の名の起こり

高津歴史写真館










2012年で高津小学校は創立100周年を迎えます。
このページで100年の歴史を振り返ってみましょう。

☆高津小学校の歴史のコーナーは 創立50周年・70周年・80周年90周年の副読本や記念誌を参考引用しました

1873(明治6年) この年から高津小学校の歴史が始まります。
高津小学校の前身 宗隆寺を仮校舎として溝口学舎ができ、
二子・久地・坂戸積善学舎も同時にできました。

翌1874(明治7年)溝口233番地に校舎を新築し、溝口学校と名前を改めました。
明治7年校舎
1892(明治25年)久地・身殿久地の2項が合併し、尋常高等第一高津小学校となり、坂戸・二子・積善の3校が合併し、尋常高等第二高津小学校となります。


1912(明治45年)第一・第二高津小学校が合併して、尋常高等高津小学校となる。現在の高津小学校の創立です。
創立を記念して明治7年当時の校舎の写真を絵葉書にしたものが配られたようです。

創立当時

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1919(大正3年)溝口75番地。
現在の帝京病院の場所に新校舎が完成しました。
周りの景色を見ても、周囲の様子がずいぶん違いますね。
大正3年校舎の写真
イラストでの校舎の様子です。

当時は児童数783人 クラス数13 と記録に残っています。単純に計算しても一クラス60名となります。
大正3年校舎のイラスト
1923(大正12年)
高津
尋常高等小学校と名をあらためる。この年関東大震災で校舎が全部倒れてしまう。
関東大震災で校舎が全壊したため5年生以下は、各町のお寺や神社を学校に間借りしていた。
光明寺や溝口神社。久地の人は円福寺に通っていた。
6年生は壊れた学校跡地にバラックを建てて勉強していたそうです。

1年半くらいで新校舎が完成しました。
関東大震災後_1
1926(大正15年)
現在の場所に新校舎が完成します。

当時の門柱は現在も保存され、正門近くでみんなの登校を見守ってくれています。
たくさんの時代とたくさんの友達を見つめてきたのでしょう。
大正15年校舎_1s
新しい校舎は、また大きな地震が来ても崩れないようにすべて平屋の1階建て。
廃材の電車のレールで全て筋交いが入っていたそうだ。
関東大震災後_2

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1928年(昭和3) 町制により町立高津尋常高等小学校となる。
1936年(昭和11)創立25周年 校歌ができる。 二宮尊徳像ができる
1937年(昭和13)川崎市に編入のため川崎市立高津尋常高等小学校となる。
1939年(昭和14)木造2階建校舎増築されます。
新しく10教室が増えました。

この当時の1年生はノートと鉛筆ではなく「石板とろう石」を使っていたんだそうです。

男女別々のクラスで男クラスと女クラスにわかれていました。
昭和14年校舎
右のイラストの 2階建ての部分が上の写真の校舎です。

遠足は文字通り「遠足」で
3年生では鶴見の花月園まで歩いて、
6年生の明治神宮は、学校から三軒茶屋まで歩いてその後電車に乗って・・・と袴をはいて歩いたそうです。
昭和14年校舎_イラスト

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昭和16年に始まった戦争ですがだんだん激しさを増し、昭和19年8月に学童疎開が行われました。
、親元を離れ大山の麓での疎開はいくつかのお寺に分けられたようです。

はじめは遠足気分の子どもたちもだんだん親が恋しくなったようです。
食料がなくて いつも空腹!
右の写真は疎開中の食事の様子ですがほとんど茶碗にお米はありません。

空腹と寂しさと不安とで本堂の裏で泣く子もよく見かけたそうです。

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昭和22年4月1日 新学制施行により 川崎市立高津小学校と改称
 
当時は食糧難でふらふらになって勉強していたようです。

写真は昭和22年の1年生(入学式)記念写真です

翌23年には 高津小学校PTAが発足しました

昭和26年には児童数が2800人を超え、東高津小学校が分かれました
昭和26年の運動会の様子です
洋服はカラフルになっていますが

当時運動靴は貴重だったようで多くの子がはだしのようです
26年当時の応援風景です
女子と男子分かれて座っていたようです

競技も女子は綱引き男子は騎馬戦とわかれて競い合っていました
昭和35年 鉄筋校舎ができるまで平屋と右手奥に見える木造2階建て校舎で勉強していました

昭和30年には児童数が2700人となり久本小学校が分かれました
このため児童数は1500人くらいになりました
昭和30年ごろの校舎の航空写真です

木造校舎がたくさん並んでいる様子がわかります
校庭の回りは、みどりのかきねです
鉄筋校舎の建設が35年から始まり毎年少しずつ増築されました

38年には50周年をむかえました
50周年に当たる記念の年(昭和38年)に木造2階建て校舎が火事で焼けてしまいました

木造校舎にあった音楽室のピアノやオルガンなどの楽器類もすべて燃えたしまったそうです
昭和42年4月1日 久地小学校が新設され平瀬川以西の児童82名が転出しました
また同年7月にはプールができ、それまで高津中学校まで歩いて借りに行っていたこどもたちは大喜びしたそうです

写真は廃止になった都電を学校に運び、図書館にしたり、会議室にしたりしていました


50周年記念誌
70周年記念誌を参考にしました

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平成5年(1993年)高津小は80周年の記念式典を行いました

平成10年 それまで実施していた岩井臨海学園を取りやめ林間学校が行われるようになりました。
平成10年からは高津小学校を会場にしたサマースクールin高津が始まり現在に至っています。

平成になるとさすがに写真もカラーになりますね
平成8年から現在の校舎の工事が始まりました。
平成10年10月3日新校舎が落成し、新校舎落成記念式典が行われました。

写真は落成当時のものです。
校舎は今と変わりませんが、周囲の草花のようすが違っていますね
平成15年11月に創立90周年記念式典が行われました。
今でもクラスで活用している「高津小かるた」がつくられました。

また、平成25年開封予定のタイムカプセルを埋めました。

高津小の歩みを簡潔にまとめてみました。
参考:創立90年記念地域副読本

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140

 明治45年(1912年)7月4日にそれまで溝の口・二子両地にあった、第一高津小学校、第二高津小学校が統合され、高津村立尋常高等高津小学校として創立許可されました。

 それで高津小学校では毎年7月4日を開校記念日としています。
今年は98年目ということになります。

 この数え方は市内でも珍しく、本当はもっとさかのぼって、明治6年溝の口学校が開校されたときを起算すると、今年で137年という歴史になります。


創立記念誌より

 明治45年(1912年)7月4日にそれまで溝の口・二子両地にあった、第一高津小学校、第二高津小学校が統合され、高津村立尋常高等高津小学校として創立許可されました。

 それで高津小学校では毎年7月4日を開校記念日としています。
今年は98年目ということになります。

 この数え方は市内でも珍しく、本当はもっとさかのぼって、明治6年溝の口学校が開校されたときを起算すると、今年で137年という歴史になります。

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 明治22年 全国で市町村制がしかれることになり、この辺りでもいくつかの村を集めて新しい村ができました。
合併した村は 溝口・二子・久地・久本・下作延・諏訪河原・北見方・坂戸の8ヶ村で、のちに宇名根(うなね)・瀬田・下野毛が加わりました。
尊名を何にするかいろいろな案が出されたそうですが、
「この辺りの風景が仁徳天皇の宮があった大阪の高津によく似ていることからその名を取って、呼び方は高津とした方がよい」というように当時の議会で決められたそうです。

ほかにも高津という名のいわれについては言い伝えがあるようです。


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大山街道は江戸時代の初めにできた道で、江戸から二子・溝の口を通って大山に通じ、さらに秦野を抜け、箱根方面にのびていました。大山へお参りにいく人や秦野のタバコ・相模川のアユなどを江戸に運ぶ人々で今では想像もできないくらいにぎわっていました。


大正2年から溝口と川崎の間を乗合馬車が走りました
一頭匹の四輪車で9人のりでした。
ラッパを鳴らしながら一日に6回往復したそうです。
大正8年から自動車に変わりました。


江戸からくる人々は、二子の渡しで、渡し船に乗りました。船は長さ5m幅1mくらいでしたが、荷車がつかえ荒れるようになってからは馬船というもっと大きな船になりました。


二子橋のが開通したのは、大正14年7月14日のことです。橋は当時のお金で50万円かかったそうで、東京府・神奈川県・高津村。多摩川電鉄がそれぞれ4分の1ずつ出し合いました
昭和2年4月に高津村が高津小になりました。人口も増えて約7千人でした。このころ南武線が開通し玉川電鉄も溝口までのびてきました。

川崎市が誕生したのは大正13年7月1日のことです。
昭和12年4月1日には高津町も川崎市に編入されることになりました。

右の写真は戦争の空襲による火災を防ぐための火災訓練の様子です。
昭和35、6年ごろになると、住宅やアパートが増え人口が増えました。
昭和39年には田園都市線が長津田までのび、溝口隧道の工事が始まりました

高津小付属幼稚園

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