むかし むかし はるかむかし
 (2600万年〜200万年前)
 末長や新作の丘は,海の中で浅くなったり深くなったり。6年生が勉強している今の地層ができました。
 1958(昭和33)年には,新作の丘の地層から,パラステゴドン象の歯の化石がみつかりました。
むかし むかし ずっとむかし
(200万年〜1万年前)
 末長や新作の丘は,波にけずられ,今のガケができました。その後,海は遠くなりました。
 19000〜16000年前に,この丘の上に住んでいた人が使った,「ナイフ型石器」が新作小の近くから見つかり,けものを食料としていたこともわかりました。
むかし むかし うんとむかし
(1万年〜2300年前)縄文時代
 末長や新作の低いところが海になり,丘の上には,縄文人(じょうもんじん)が住んでいました。海から魚や貝をとって生活していたことが,末長や新作で見つかった貝塚からわかります。
むかし むかし おおむかし
(2300年〜1700年前)弥生時代〜古墳時代
 海は今と同じくらい遠くになってしまいましたが,丘の上には弥生人(やよいじん)が住んでいました。
 このころお米を作って生活していたことが,末長遺跡・新作小高台遺跡から見つかった土器や石器からわかります。
 西暦250年ころに,(今の兵庫県但馬地方にいた)多遅摩毛理(たじまもり)という人が,天皇に命じられてこの地を治め,この地でとれたミカンを天皇に届けたことから,但馬菓(たちばな)・橘と名付けられたといいます。ミカンが採れたことから,当時は暖かいところだったこともわかります。また,この多遅摩毛理という人の子孫に,日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃になり,子母口の橘神社に祭られている「弟橘媛命(おとたちばなのひめ)」がいますが,姫の生まれた場所がこの橘だという話,病気で亡くなって埋められた墓が富士見台古墳だという話もあります。
むかし むかし むかし
(1700年〜1400年前)古墳時代
 梶ヶ谷西福寺の丘の上などに,このあたりを治めていた「かしら」の墓ができました。「古墳」とよばれ,小さな山のようになっています。
 西暦530年ころ,笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が大和朝廷から武蔵の国造として命じられ,今の埼玉県吉見地区,川崎市橘地区,東京都多摩地区,横浜市久良岐地区の4カ所に屯倉(天皇に納める農作物の倉庫という意味から,それを管理する役所や天皇の土地という意味)を置きました。橘地区以外では大きな遺跡が発掘されているので,橘地区でも相当大きな遺跡が見つかる可能性があります。
 影向寺のもととなった橘寺(但馬菓寺)は,西暦
550年頃に建てられたともいわれています。
むかし むかし ならじだい
(1400年〜1200年前)飛鳥時代〜奈良時代
 西暦650年ころ,野川など数カ所の丘に修験道場(仏教の勉強をする所)ができました。西暦750年ころには建て直されて養護寺に名を改め,聖武天皇新御願寺東(あずま)大寺とし,全国に造らせた国分寺の上に置きました。後に影向寺になる所です。
 また,このころ橘花郡の郡衙(ぐんが:この地域を治めるための役所)が現在の橘小学校の近くに置かれました。当時の橘花郡は,今の川崎市のほとんどと横浜市の鶴見区・港北区,東京都の一部まで含まれていたといいます。都へ税を運ぶなど,奈良の都との行き来が盛んになり,西暦750年頃に末長小高台地区に小高駅(おたかのうまや:役人が馬を乗りかえる所,その馬を飼っている所)が設けられました。この都への道は,現在の中原街道と大山(厚木)街道(国道246号線)です。
むかし むかし へいあんじだいから
(1200年〜400年前)平安時代〜戦国時代
 西暦802年頃富士山が大噴火をおこし,末長のあたりには灰が2〜3mも積もったといわれます。そのため,人々は病気になったり,作物が作れなくなったりと大きな被害を受けました。このあと,末長周辺は影向寺の土地として守られ,街道も離れてしまったため,歴史の中ではあまり登場しない場所になります。
 西暦1050年ころ,東北地方の反乱をおさえるために京都から来た源頼義が,橘郡の社寺にお参りをしてから出かけていき,その子の義家が1090年ころ,戦に勝った帰りに橘郡の社寺へ感謝のお参りをしたそうです。義家はこの時に,珍しい石を見つけこの石に武運を祈り弓矢を納め,この里の民が永く栄えるであろうと言って,末長邑(むら)と名付けたといいます。「長く連なる岡の上」という意味でもっと前から名前がついていたという説もあります。また「新作」は,西暦1560年ころ末長村から分村したといわれます。
 なお,関東地方の八幡宮はこのころに義家が戦勝記念と国家安泰を願って造らせたといわれます。
 西暦1350年ころには足利軍に,西暦1580年ころには武田軍に橘地区のほとんどの家や寺などが焼かれたそうです。
むかし むかし えどじだい
(400年〜130年前)江戸時代
 西暦1600年ころ,矢倉沢往還(大山街道)が整備され,溝口・二子の駅(宿場)に末長村からも手伝いを出すことになりました。
 西暦1609年ころ,小泉次大夫によって二か領用水が完成し,それまで,池ノ谷戸からの水だけに頼っていた末長,新作も米などの作物がたくさんとれるようになりました。
 西暦1660年ころ,養護寺,養光寺,栄興寺と呼ばれていた寺が,影向寺になりました。
 西暦1865(慶応1)年ころ,清沢村(今の千年)で松本恒之介によって,寺子屋「達観堂(たっかんどう)」が始められました。
参考資料:『川崎市史』(川崎市編集・発行)
 『影向寺史』(亀ヶ谷利男著・影向寺史刊行会発行)
 『たちばな』(川崎市立橘小学校)
 その他,インターネット上などの資料